“未知なる脳”への挑戦と人工知能(AI)の可能性

ヒトの脳の重さは約1.4kg。その中には約850億ものニューロン(神経細胞)が存在し、それぞれが数1000の他のニューロンとつながっている。2013年に日本で最高の処理速度(1京回/1秒の計算が可能)をもつスーパーコンピュータ”京”が行ったシミュレーション実験では、ヒトのニューロンのたった2%に相当する17.3億個のニューロンが、1秒間に行う活動のシミュレートに40分も要したという。ヒトの脳の情報処理能力がいかに高性能であるかが分かる。まだまだコンピュータは人間の脳には追いついていないのだ。

誰でも集中力を高める方法を見つける試み

「脳の研究は、人間そのものの理解につながります。また社会や人々の生活に最も役に立つ研究分野であることは疑いようがありません」と話す静岡理工科大学情報デザイン学科の奥村哲教授は様々なアプローチで脳の不思議に挑んでいる。たとえば”集中しているヒトの脳の状態“の解明だ。

弓道では、弓を引きしぼり的を狙う状態を”会(かい)”という。集中力が最大限に高められ、競技成績に直接影響する最も大切な瞬間だ。熟練射手の脳波を測定すると、リラックス時や瞑想時に多く検出される脳波”α(アルファ)波”が、まさに”会”で多く出ているということがわかったのだ。

奥村教授は「卒業研究生に弓道部の部長さんがいて、彼女が“弓道行射中の脳で何がおこっているのか調べたい”というのでこの研究を始めたのですが、観察されたα波の美しさには非常に驚きました。またα波が発生する状態はダーツや射撃など多くの“射的”競技の熟練者にも同様に観察されることがわかってきました。逆に初心者や集中が途切れた状態ではα波の割合が少なくなるという研究結果も出はじめています。我々はさらに突き詰めて、好成績を出すスポーツ選手などが口にする“ゾーンに入った”という状態を、どうすれば高い確率で作り出せるのかを明らかにしたいと考えています」と話す。

また別の機関では、卓越する能力を示すプロフェッショナルたちの判断の速さ・正確さの基盤にある“直観力”を発揮する脳の機能も解明にしつつあるという。スポーツや勉強などで高パフォーマンスを引き出す方法を脳科学的に解明することが期待されている。

病の治療に可能性を拓く脳科学

様々な神経・精神疾患の脳研究も進んでいる。

奥村教授の研究室では吃音と脳の関係の解明に取り組んでいる。「りりりりんご」のように同じ音節を繰り返してしまったりするなど、言葉がスムーズに出てこない症状を”吃音(きつおん)”と言う。奥村教授は、ヒトと比較すると脳構造は単純なものの、ヒトと同様に多くの種類の音節を並べて、複雑な構造の歌を囀(さえず)る鳥”ジュウシマツ”に、吃音の様な状態を人工的に作りだした。

「吃音症の一因は、発声した自分の声のフィードバックに問題があるという説が昔からありました。そこで”ジュウシマツ”に対して、脳の聴覚野の神経活動を薬で一時的に抑制すると、歌の最初の音節を繰り返したり、詰まったり…つまり”ジュウシマツ”が吃音様の症状を示したのです」。

脳を理解する最善の方法は
AIで再現してみること

奥村教授は共同研究者とともにこの結果の人工知能(AI)での再現を試みた。まずジュウシマツが囀る歌の音の並び順(歌文法)をAIが学び、ただしく出力できるようにする。その出力をもう一度同じAIにフィードバックして、歌っている音節をAI自身に戻しつつ、次の音を生成させ続けた。このとき戻すフィードバック信号を攪乱すると、”ジュウシマツ”の聴覚野抑制実験と同様に、AIも正しい歌文法を出力できなくなってしまった。様々な統計解析を行った結果、その様子は吃音状態になった小鳥の“壊れた歌文法”と全く同じだった。つまりAIも”吃音症”を発症したのだ。

奥村教授は話す。「“何かのことを本当にわかるということは、同じものをつくれるということだ”という立場があります。この立場に立てば、AIで“吃音”の再現を実現したことで吃音のメカニズムの理解はその分進んだと言えるでしょう。これからは動物実験とAI研究両面から病気のメカニズムを解明し、治療法を開発する研究スタイルが増えてくると思います。またAIによる全脳シミュレーションが技術的に研究の射程に入ってきたことには、本当にワクワクしています」。

現在のスーパーコンピュータでは、ヒトの脳全体の働きを完全にシミュレートすることはまだまだできないが、より小さく単純なシステムなら色々なシミュレーションが可能になってきた。コンピュータの進歩は指数関数的だ。アメリカの未来学者、レイ・カーツワイルは、コンピュータの情報処理能力がヒトの脳を超える“シンギュラリティ(技術的特異点)”実現は遅くても2045年頃と予想している。奥村教授は続ける。

「シンギュラリティを迎えた時、コンピュータのAIに“意識や心”が芽生えるか?“ついては、研究者の間でも議論がわかれます。私自身はそう簡単に心は作れないだろうと考えています。しかしそれは心と脳の問題が解けないということでは決してありません。ヒトの脳よりも高度な処理能力を持った未来のコンピュータにヒトの赤ちゃんほどの心も実装できないとしたら、ヒトとコンピュータの違いは一体何なのだろうか? シンギュラリティを迎えたときこそ、我々はデカルト以来のハードプロブレム、“心脳問題”に、より直接的に挑戦できるようになると思っています」。

the 研究者

 

 

 

 

静岡理工科大学
奥村哲 教授

実際の動物行動を対象とし、その神経機構を考える「神経行動学 」を研究しています。解剖・生理・薬理など様々な手法を用いており、最終的には「言語」を可能にするメカニズムの一端を神経科学的に解明したいと考えています。BMI(脳波など脳の活動を反映した信号を活用する技術)に関する研究も行っています。

神経行動学研究室(奥村研究室)はコチラ

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